■令和2年4月11日(日)茅ヶ岳

深田久弥氏終焉の地

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1971年3月21日、この山に登山中、脳卒中で亡くなった、日本百名山の著書、深田久弥氏終焉の地に思いを馳せる。

こんにちは、青空仰です。 本日もご覧いただきありがとうございます。

本日の早朝は茅ヶ岳に登山の予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大防止やその他の理由により自粛しました。

僕は櫛形山に続き、茅ヶ岳が大好きで、こちらも年に5回以上は登っています。深田久弥と聞けば山が好きな人では名前を知らない人がいないくらいの巨匠ですね。

著書、『日本百名山』」は現代でも評価は高く、全山登頂を目標にしている人も多いと思います。僕も読み物としての「日本百名山」は大好きで、何度も何度も読み返しています。深田久弥さんの山への憧憬が素晴らしい表現でまとめてある逸品だと思います。

しかし、深田氏が『日本百名山』」を書いた以外になにをした人かご存知の人はいますか?僕はまったく知らなかったです。ただの山好きなおじさんにしては文章が只者ではないとは思ってはいましたが。

僕の蔵書にこの本がありますので簡単に紹介します。

  石川県大聖寺町に生まれ、東京帝国大学文学部哲学科に在籍しながら雑誌社の懸賞小説の下読みをする仕事をしていた。そのときに応募してきた北畠八穂と知り合い同棲するようになってからいくつかの作品を発表、これらの評価も高かったことから大学も雑誌社も辞めて作家として独立した。
やがて北畠と入籍したが、翌年には初恋の女性の木庭志げ子と偶然再会してしまう。脊椎カリエスで寝たきりの北畠を置いて志げ子と逢うようになり、志げ子が深田の子を出産、中国大陸に出征して帰ってきた深田久弥は志げ子と再婚してしまう。

このことに激怒した(あたりまえじゃw)北畠は、今までに深田が発表した作品のほとんどが自分の書いた本を手直ししただけのものと暴露したので深田は作家としての信用がなくなってしまい、。以後の深田の暮らしぶりは相当貧しいものであったようである。

やがて山の活動を中心に執筆活動を行い、発表した『日本百名山』が高く評価され人気作家に返り咲いたという話です。

読んでみても、褒められる人生でなかったと思いますが・・・

また、この本を読んだだけではどこまで事実かはわかりませんが、この本にでてくる北畠八穂さん像はだいぶ怖い人だったようで・・・

茅ヶ岳の魅力については次の機会に。手軽に登れて山頂からの景色もよく魅力的な山ですよ。

この画像は2019年11月2日の山頂の様子です。

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今日は山頂で青空が仰ぎたかった。