道草山行ひとり旅



遠藤一郎/著

街にいる時山を憶い、山にいては人を想う。昭和の半ば、開発以前
の山々のありし姿を伝える山岳紀行エッセイ。

目次


登山ひとり旅、出会い(登山ひとり旅
キレットの闇の深さ―初冬の南八ケ岳
正月の鳳凰三山地蔵岳
ヒグマの棲処を行く―表大雪・十勝連峰縦走 ほか)
忘れ得ぬ山、紀行(危うく遭難―登頂できなかったペテガリ
愛山渓倶楽部―大雪山麓の迎春
赤石、荒川、塩見岳縦走
イワナ釣りと滑滝のカウンナイ遡行)

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この本の表紙にこんな文があった。


ひとりで旅をしていると、淋しくないかとよく聞かれる。
確かに、四、五日も人に会わないと、形の上では孤独に見えるが、気持はそ
れほど痛切ではない。「都会の孤独」とも言われるし、『荘子』には「陸沈」
という言葉もある。「大勢の中にいながら、どうしても周囲の人々とうちと
けて融合することを好まぬ人」のことである。
誰しも、社会秩序の中での日常生活を対人関係から煩らわしいと感じたり、
人に思いが通じない時、疎外感に陥り、孤独感にさいなまれることもあろう。
その時、周囲の人々は自分に対して敵となり、抑圧者に見える。ところでひと
り旅では、他人に対する身構えがいらず、自分の心情は素直に流露し、他人の
気持は過剰な思惑を挟まずにひずみなく受け入れられるように思う。
逆説的ではあるが、ひとり旅のほうが、心の安定を得て、多くの人々と温かい
つながりが持てるのではあるまいか。若山牧水が生涯、旅で過ごした日数は1
750日にもなるそうだが、人を恋いながら、ひとり旅が多かったようだ。
街にいる時、山を憶い、山にいては人を想う、そんな矛盾ともいえる気持の底
には、人間は限りなく虚偽、虚飾に蔽われた存在だという弱さを自覚する故に、
純一無雑な裸の境地を熱愛する心情が流れているのだ。山に在る時、旅に在る
時、それがひとりであるならば、一層、人の心は純化される。

これがなかなかいい文だったので借りてみた。筆者が辿った山の足跡について
は特に心が動くものがなかったけれど、筆者のこれらのような言葉のいくつか
は共感できるものがあったな。

やはり山は単独行がいいね。一人で山へ行けば、『本当の自分と向き合える』
ような気がする。最近は達観が「やい!次はどこに連れて行ってくれるんだ?」
と言うので2人で行くことが多いけれど・・・

『山にいては人を想う』もの、山へ行けば行ったで、早く家に帰ってたくちゃん
といっぱい遊びたくなるし、仕事や家庭のことをもっと頑張ろうと思って帰って
くるのだが、どうもこのへんは説明不足なのか妻には理解されないようである。
山から帰って「しばらく見ない間に大きくなったなあ」とか言って、たくちゃん
と遊んでいれば、「あらーたくちゃんお利口ねー。よくこのおじさんのことを覚
えていたわねー」とかなんとか・・・・